2014年08月12日

7月 かみのやま城下町と湯町を巡る

激戦の舞台となった羽州の名城、
上山城の物語を訪ねて。

2014年7月某日

s01上山城01.jpgs02上山城郷土資料館01.jpgs06上山城天守閣眺望02.jpg
s08上山城郷土資料館04.jpgs10上山城茶屋02.jpgs11城廻路足湯.jpg
s13月岡神社03大笠松木.jpgs15城廻路01.jpgs17古峰神社01.jpg

 上山市は城下町、宿場町、温泉街の3つの文化を有する全国的にも珍しい都市だという。市の中心部を走る羽州街道は、かつて奥州街道と並び東北の大動脈として賑わいを呈した歴史を有し、街を歩けばあちらこちらに今なお往時を偲ぶ遺構が保存されている。じりじりと照りつける7月の陽射しの下、そのスポットを2人で尋ねてみることにした。
 まず向かったのは羽州の名城、上山城。天守閣のある山頂には専用の無料駐車場もあり、城の見学はもちろん、武家屋敷のある周辺の湯町を歩いて巡るにも便利だ。
 別名“月岡城”とも呼ばれる上山城は藩境の城塞として、米沢の伊達、上杉氏の激しい攻防戦の舞台となった。現在の城は1982(昭和57)年、旧二の丸跡に模擬天守として再建されたもので、内部は郷土資料館になっている。
 入館料(大人410円)を支払い中へ入ると、「ご案内しましょうか?」との声。市役所を退職後、ボランティアガイドを務めるという寺内さんのご厚意で、城下町上山の歴史や蔵王修験道の逸話など、立体的展示に富んだ見応えのある館内をじっくりと見学。中でも羽州街道の宿場、十日町の幕末期の町並みを示した“東講商人鑑”(あずまこうあきんどかがみ)なる資料は、当時のガイドブック的なものらしく、なかなかに興味深かった。ここは時間があれば是非、ガイドを伴った見学をおすすめしたい。蔵王連峰と上山市街地の360度の眺望が広がる最上階の展望台からは、先程見た“東講商人鑑”の絵図と今も変わらぬ町割りの十日町も見下ろせた。
 寺内さんに礼を言い資料館を出た後、すぐ傍の茶屋で山形名物パインサイダーとチェリーサイダーを購入し、風に吹かれながら木陰の足湯でのんびりと、景色を愛でる小休止。
 城の西側、旧本丸跡に建つ「月岡神社」の境内には、1878(明治11)年に200人もの人力で移設されたという見事な枝ぶりの御神木「大笠松木」もあった。時刻は丁度、子供たちの下校の頃。城を囲む桜並木の遊歩道では、ランドセル姿の小学生が、連れも関心するお行儀の良さで挨拶をしてくれる。微笑ましいその姿に言葉を返しながら、「古峯神社」から「月岡公園」を抜け城をぐるりと一周。園内からは上山ゆかりの歌人、斎藤茂吉が愛した蔵王の風景が、遠く夏の陽射しにまどろむように横たわっていた。

s19春雨庵01.jpgs21春雨庵05.jpgs24春雨庵08沢庵試食.jpgs23春雨庵09沢庵和尚.jpg
s28葉山舘ロビー庭02.jpgs27葉山舘ロビー活花.jpgs29葉山舘部屋風呂.jpg
s31葉山舘夕食03.jpgs33葉山舘夕食04.jpgs34葉山舘夕食06.jpgs36葉山舘風呂01.jpg

沢庵和尚ゆかりの草庵と、
季節をもてなす名宿の夏風情。

 宿へ向かう道すがら、“沢庵漬け”の考案者で知られる“沢庵和尚”こと、沢庵禅師ゆかりの「春雨庵」(はるさめあん)へ。ここは1629(寛永6)年、禅師が上山に配流された折に移り住んだ草庵だ。沢庵禅師はこの地で約3年間を過ごし、雨にけむる閑静な庵をこよなく愛し自ら「春雨庵」と名付けたという。徳川家光に赦免され、江戸に戻って東海寺を開山して後は、春雨庵を境内に移築。現在の建物は1953(昭和28)年、当時、庵があった場所に東海寺から春雨庵の一部を譲り受け再建したものだ。
 目指す庵は住宅街の一角にひっそりとあった。茶人でもあった禅師を偲び、南側には池を擁した茅葺の風流な茶亭と茶庭も配されている。庵内にはヒゲをたくわえた沢庵禅師のリアルな尊像が、私たちをドキリと驚かせてくれた(笑)。ふと視線を下ろした壺の中には「沢庵漬け」の試食も発見。禅師考案のレシピを再現したというそのお味は…これぞ保存食、の強烈な塩辛さ!連れも思わず顔をしかめる元祖味体験となった(笑)。
 ヒグラシの声に包まれ辿り着いた葉山館も、夏の装いに一変したようだ。紅花が迎えるロビーには、緑を映す池が涼やかな景色を奏でていた。汗ばんだ体を早速、部屋の露天風呂で洗い流し、宵闇の静寂を独り占めの大人贅沢。
 肉、魚、食事が2種類からそれぞれセレクトできるお待ちかねの夕食には、「合鴨ロースの和風トマト煮 冷製サラダ仕立」や「鱈場蟹と月山竹の子の天ぷら」、「焼穴子の卵とじ小鍋仕立」、「生雲丹丼」など、鮮やかで贅沢な季節の味わいが私たちを迎えてくれた。地元ワイナリーのロングセラーだという「蔵王スター」の軽めの赤ワインをいただきながら、感性あふれるひと皿、ひと皿に連れと何度も舌鼓。デザートには、旬を迎えた佐藤錦のサクランボもお目見えだ。山形の豊かな夏にあらためて感じ入るひとときだった。
 就寝前には広い大浴場での長湯をまた堪能。明日の出会いに静かに思いを馳せてみる。

s37花咲山展望台より01.jpgs38花咲山恋人の鐘.jpg
s39花咲山葉山神社より02.jpgs40花咲山葉山神社01.jpgs41葉山足湯湯あみ地蔵01.jpg

温泉+滞在+ウォーキング。
自然と親しむクアオルト体験。

 晴天の朝。チェックアウト後は、現在、温泉で推進している「クアオルト」コースのひとつ、宿の裏手にある小高い「花咲山」へ。「クアオルト」はドイツ語で“療養地・健康保養地”を指す。現在、かみのやま温泉では、気候風土を利用した疾病治療や予防の先進国であるドイツにならい、このクアオルトをいち早く取り入れ、「温泉+滞在+ウォーキングコース」での健康づくりに取り組んでいる。
 展望ポイントにもなっている山の頂きまでは、歩いて片道約1時間程度。ウォーキングコースらしい細い道沿いには桜や紫陽花、モミジも植栽され変化に富む景色が広がる。
 ちょうど中腹あたりだろうか。開けた視界に、景色へ突き出すように設置された展望台が現れた。ここからは上山市街はもとより、山形市街や遠く刈田岳や熊野岳など蔵王連峰が一望できる。人気の夜景スポットでもあるらしく、全国で100箇所程ある“恋人の聖地”のひとつしてカリヨンも整備され、先客のご婦人たちが高らかに打ち鳴らしていた(笑)。
 一息ついてさらに登った先には、746(天平18)年に開基されたという葉山神社が、素晴らしい眺めで私たちを慰労。下山後は、蔵王の山並みを仰ぐ麓の「ふれあい足湯」で、疲れた足へご褒美タイムとなった(笑)。

s42武家屋敷通.jpgs45武家屋敷三輪家02.jpgs47武家屋敷三輪家03.jpg
s52武家屋敷三輪家04.jpgs48武家屋敷三輪家05.jpgs49武家屋敷三輪家06.jpg
s50武家屋敷三輪家07.jpgs55武家屋敷旧曽我部家02.jpgs59明新館跡.jpg

今なお人の営みに護られた、
武家屋敷群で夏のひと涼み。

 再び城のある界隈を訪れ次なる目的地、武家屋敷へ。屋敷群は昨日と同じ駐車場から数分歩いた先に森本家、三輪家、山田家、旧曽我部家と、4軒ある。石垣に土塀や中門など侍の居宅らしい風格あふれる建物は、約200年前に建てられたものだ。現在も住人が居るらしく、建物内の見学ができるのは「三輪家」のみ。とはいえ、人の暮らしの気配が、往昔そのままに感じられる風情は今や希少ともいえるだろう。 
 入館料(大人210円)を支払い上がった「三輪家」の座敷は、心地よい風が抜け意外に涼やかだ鼻孔に届く湿り気を帯びた古い家の匂い。続き間の間取りや見覚えのある調度類は、子供の頃に訪ねた祖母の家を思わせる。開かれた障子越しに風致を添える庭園。遠く響く子供たちの声に、時折、チリンと軒先の風鈴の音色が応える。「ほっとするわね」と、濡れ縁の椅子で寛ぐ連れに「ここで一日、読書でもしたいね」と私も合いの手。一瞬にして永遠にも思える、日本の夏にひたるひとときだった。
 並ぶ「旧曽我部家」も、藩政時代に造られた武家住宅の流れを持つ典型的な中級武家住宅だ。美しく手入れされた母屋の裏には、イベントの際に温泉街の女将たちが呈茶をするらしい休み処もある。館の近くには、かつての藩校「明新館跡」の碑もひっそりと佇んでいた。

s61湯町公衆浴場02.jpgs63湯町足湯02鶴の休石.jpgs62湯町足湯01.jpg
s65湯町界隈01.jpgs66湯町界隈03山城屋.jpgs67湯町界隈05山城屋.jpgs68湯町籾蔵.jpg

 道の先は、昔のかみのやま温泉の佇まいが今なお残る「湯町」だ。 城下町らしい鉤型の通りから続く路地には素朴でレトロな「共同浴場 ゆまちの湯」も。 「準備中だけど、見てく?」と、気さくな管理人の方に勧められ、営業前の風呂を見学させていただけば、番台のある脱衣所や趣あるタイル床の円形浴場、コンクリートむき出しの壁と、目の前に広がるのは紛れもない昭和の風景。これだから、街歩きはやめられない。
 別名「鶴脛の湯」(つるはぎのゆ)とも呼ばれたかみのやま温泉は、湯野浜温泉や会津東山温泉と並び奥羽三楽郷に数えられた名湯だ。約550年前、旅の僧、月秀が沼のほとりで足を痛めた鶴が脛(すね)を浸して治ったのを見て発見したという開湯逸話どおり、町には鶴が休んだ「鶴の休石」が今なお残る。傍らには、豊富な湯量を誇る当地らしい「湯町足湯」もあった。
 界隈は以前、蔵王の山々を借景に“氷すい”をいただいた茂吉ゆかりの「山城屋」(詳細はこちらのブログを参照)をはじめ、江戸時代の籾藏など、特に古い遺構が残る地域のようだ。

s70湯の上観音寺01.jpgs72湯の上観音寺03.jpgs73湯の上観音寺05.jpg
s74下大湯公衆浴場01.jpgs76下大湯公衆浴場02.jpgs78下大湯公衆浴場03.jpgs81下大湯界隈02鏡石.jpg

人々の篤い信仰を伝える名刹と、
歴史を重ねる憩いの共同浴場。

 「御朱印帳ですか?」寺の関係者らしい、おばあちゃんに声をかけられ立ち寄った「上の山観音」(通称「湯の上観音」)。1109(天仁2)年の創建と伝わる由緒ある寺の本尊は、行基自らが彫ったという聖観世音菩薩像だという。歴代領主からも崇敬された寺は江戸後期に焼失したが、多くの熱心な信者の寄附により再建された。それを裏付ける逸話によれば、参道を支える敷石もまた、日陰の身の辛さを生きた“飯盛り女”と呼ばれる遊女らの寄進によるものだという。寺は“上山三十三所観音”の第一番としても知られ、境内には市指定文化財の「大日堂」や、珍しい温泉の手洗鉢「洗心の湯」もあり、本堂の向拝で目を引く昇龍と鳳凰、鬼瓦の見事な彫刻が絵になる風格を漂わせていた。
 高台にある寺のすぐ下には、歴史を誇る温泉のシンボル的存在の共同浴場「下大湯公衆浴場」の姿も。約400年前、上山藩主によって民衆に開放されたという浴場は、湯治をはじめ羽州街道を行き交う人々で大いに賑わったという。現在、風呂は1階で、2階は有料の休憩場となっている。高い天井の浴室は、古き良き時代の面影を漂わせたいい風情。入浴は入口でチケットを購入するシステムだ。通常は大人150円。洗髪する際は追加で100円支払うと、番台で蛇口の“コック”を貸し出してくれる。アナログながらも楽しいそのルールに、たまらずひと風呂浴びていくことにした。
 湯はワイルドにも、源泉と温度を調整する水をダブルで浴槽に直接注入。湯加減は熱め。ふうふう言いながら早々に上がり(笑)、出てきた連れと互いの感想で盛り上がる。建物の向かいには上山藩と山形藩の藩境に設置されたという石標「鏡石」が、真っ赤な顔をした私たちの姿を愉快そうに眺めていた。

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羽州街道の面影を残す十日町。
豪快美味な山形グルメの底力。

 下大湯から歩いて50mも行くと、城の展望台からも見下ろした昔の羽州街道、十日町に出る。現在、商店街となっている道には、今なお江戸の面影を残す蔵も見てとれる。路地裏には、時代劇のような木橋や豪壮な寺も立ち並び、かつての栄華を物語っていた。
 暑い中、ほうぼう欲張って少々、歩きすぎたようだ(笑)。疲れも空腹もピークとなり、宿からすすめられたそば処「さかえや」の暖簾をくぐる。私は人気の冷たいラーメン「中華ぶっかけ」(800円)、連れはシンプルな板そば(950円)を注文。運ばれてきたラーメンは、カリカリに揚げたボリューム満点の玉ねぎの天ぷらがこんもりと山を描き、麺が見えない(笑)。石臼挽きの粉で打つという板そばも、軽く2人前はあるだろうか。見た目のインパクトを裏切らないその味わいは、空腹を満たして余りあるまさにど真ん中の好みだった(笑)。山形の楽しく豊かな食文化に、またもや感服。
 文字どおり、降り注ぐような蝉時雨のなか、額に汗して温泉街の見どころを歩いてみれば、独り占めの夏を誰より贅沢に味わえるひとときだった。行先にささやかなテーマを持って出かける旅は、心躍るときめきと味わいをもたらす出会いの宝庫だ。それもまた、かみのやまの煌めく陽射しがくれる、夏の輝きかもしれない。







posted by kaminoyamaaruku at 16:04 | 日記 | 更新情報をチェックする