2014年03月04日

2月 茂吉のふる里を訪ねて

人間・茂吉の生涯にふれる、
齋藤茂吉記念館。

  
2014年2月某日

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 大正から昭和にかけて活躍したアララギの代表歌人「齋藤茂吉」は、上山市の出身だという。茂吉が生涯に渡り詠んだ歌は17,000首を超え、現在、北海道から九州にかけての広範囲に多くの歌碑が点在し、いまなお茂吉を敬愛する人々の手によって歌碑が建立され続けている。極寒を極める東北の2月。先の記録的な大雪が未だニュースを賑わすなか、何故か積雪が例年の半分以下という、私たちを歓迎するかのような上山へ、茂吉の足跡を辿る旅に出た。
 1882(明治15)年、山形県南村山郡金瓶村(現上山市金瓶/かなかめ)に誕生した齋藤茂吉は、高等小学校を卒業後、その神童ぶりから東京で医院を開業していた同郷出身の斎藤紀一の養子となり、東京帝大医学部を卒業。精神科医の道を歩む傍ら正岡子規に傾倒し、伊藤左千夫へ師事し作歌を志すようになる。短歌を〈生のあらわれ〉とするその生命主義は、代表歌集である「赤光」「あらたま」で開花し、歌壇を超え広い読者に衝撃を与えた。一方で、私人としては紀一の次女、輝子と結婚。息子には、モタさんの愛称で親しまれた精神科医で随筆家の斎藤茂太氏をはじめ、作家の北杜夫(齋藤宗吉)氏がいる。
 茂吉ゆかりの品を展示する「齋藤茂吉記念館」は、かみのやま温泉の手前、国道13号線を入ってすぐの小高い「みゆき山公園」内にあった。公園は〈JR茂吉記念館前駅〉と直結し、電車でのアクセスも至便だ。立派な赤松が目を引く入口には、県内出身の彫刻家、桜井裕一氏作の〈茂吉胸像〉が、凛としたまなざしで私たちを迎えてくれた。 
 早速、受付で入館料(大人500円)を支払い、中へ。館内は茂吉の業績や生活を伝える書画や遺稿、交遊した文人との書簡などの資料を、作歌の歩みに沿って紹介する地下の常設展示室と、齋藤家の一族や晩年の茂吉の書斎を再現した、一階の展示室に分かれている。施設には、茂吉の生涯をスライド上映する映像室や、茂吉自身の肉声による短歌朗詠が楽しめる仕掛けなど、その文学的世界に気軽に親しめる工夫がされており、短歌に馴染みがない人でも充分に楽しめる。
 愛用のカンカン帽や眼鏡とともに並ぶ遺品の中には、茂吉が〈極楽〉と称し携帯していた便器のバケツなど、ユニークなものも。ときに洗浄して野菜や果実を入れて持ち歩いたというエピソードに「繊細なのか、豪快なのか…」と、連れも複雑顔だった(笑)。

 

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22茂吉記念館s.jpg25茂吉記念館s.jpg26茂吉記念館 茂吉記念館前駅s.jpg

明治天皇ゆかりの景勝地で、
まだ見ぬ春を想いながら。

 記念館が建つ「みゆき公園」の名は1881(明治14)年、明治天皇が東北巡幸の折、蔵王連峰を見渡すこの地に、小休所を設けたことに由来する。園内には復元された小休所(「環翠亭」)とともに、茂吉の短歌
   『 蔵王山その全けきを大君は 明治14年あふぎたまひき』
を刻んだ行幸記念碑や、茂吉をはじめとするゆかりの歌人の歌碑も点在している。 
 記念館から伸びる赤松に囲まれた遊歩道の先には、かつて箱根にあったという斎藤家の別荘〈箱根山荘〉の離れも移築展示されていた。茂吉はこの建物を〈勉強部屋〉と呼び、疎開から帰京後の通算8年の夏の間、書斎として使ったという。
 約250本の染井吉野がある公園は桜の名所としても知られ、〈JR茂吉記念館前駅〉から続く道は、春には見事な桜のトンネルと化し、新幹線が通り過ぎるたびに風に舞い踊る桜吹雪が、夢のように美しいのだという。ここに来たらぜひ、屋内、屋外ともに、たっぷりと時間をかけて、茂吉の世界に触れてみて欲しい。

 
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38葉山館夕食s.jpg34葉山館夕食ワインs.jpg48葉山館露天s.jpg

冬の贅沢を味わい尽くす、
料理と会話と地場ワイン。

 葉山舘に着く頃は、既に夕暮れどき。ロビーには、春を呼ぶ梅の香りがふわり漂っていた。ふと気付けばフロントの傍らに、ふる里に疎開してきた茂吉が、激しさを増す戦況に心を鎮めるため、1949(昭和24)年「みゆき公園」で作歌したという
   『郭公と山鳩のこゑきこえ居る 木立の中に心しづめつ』
の歌が紹介されている。今しがた佇んでいた公園の風趣が脳裏によみがえる。蔵王の山々を眺める部屋の足湯で、紫色の稜線が闇に溶け落ちる様子を、いつもより深い感慨を抱きながら、二人で飽かずに眺めた。
 夕食は今日もまた、2種類ずつ用意された肉料理、魚料理、お食事から、連れと互いに違うものをセレクトする貪欲作戦(笑)。私が真っ先に惹かれた「山形牛赤ワイン煮込み」は、ジューシーな肉の深い旨味とコクのあるソースが秀逸だった。旬の「庄内寒鱈どんがら汁」や「子持ち若さぎ唐揚げ」、初めて味わう「チーズ雑炊 トマト味噌添え」など、食指をそそる献立の数々に思わずオーダーした宿おすすめのワインは、いま愛飲家の間でも注目のかみのやま産シャルドネ100%による限定生産。料理を選ばない、すっきりとした辛口は果実味にあふれ、食中酒にもよく合う。聞けば県内には酒蔵も含め、地場ワインを醸す造り手が12もあるとのこと。まだまだ奥深い、山形の食文化に楽しみがまたひとつ増えてしまった。
 部屋でしばらく酔い冷ましをした後、ひとり向かった24時間掛け流しの大浴場は、なんと贅沢な貸切状態。愉快な大名気分のご褒美となった(笑)。

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50葉山館朝食s.jpg51葉山館朝食s.jpg52葉山館朝食茂吉うたs.jpg
53金瓶風景s.jpg58金瓶茂吉生家s.jpg59金瓶茂吉生家蔵s.jpg
62金瓶学校s.jpg67金瓶学校s.jpg71金瓶学校からs.jpg

茂吉生誕の地、金瓶あるき。
同じ風に吹かれながら。

 冬季オリンピック中継の観戦で、やや寝不足の翌朝。すでに部屋の眺望風呂でひと風呂浴び、爽やかな様子の連れに促され、少々、重い頭を抱えながら朝食へ。
 客が予約した時間に合わせ、専用土鍋で炊き上げる白飯のいい香りが立ち込めた食事会場では、昨夜と同じ担当の若いスタッフが、元気な挨拶で迎えてくれた。
「ホラ、ここにも」と、朝から食欲満々の連れが差し出した納豆には、
   『東北辯(べん)の夫婦まうでて憩ひ居り 納豆のこと話してゐるも』
の茂吉の歌が。「本当に親しまれているのね」と、彼女もすっかり感心している。伺えば、茂吉の生家がある金瓶はすぐ近くとのこと。せっかくだから寄ってみる?と、聞けば二つ返事の笑顔が返ってきた。
 宿をチェックアウトして、車を北へ走らせること約10分。金瓶地区は、昔ながらの素朴な
集落だ。まずは「茂吉ふるさと会館」の駐車場に車を停め、すぐそばの「茂吉の生家」へ。

 立派な屋敷門を構える生家は、今も人が居住しているらしいが、あいにくの留守の様子。失礼して敷居をまたぎ敷地内の案内書きを拝見。茂吉は、この家の守谷熊次郎と母いくの三男として生まれ、14歳で上京するまでここで育ったという。この生家で茂吉は1914(大正3)年、最愛の母の最期を看取り、歌集「赤光」の〈死にたまふ母〉に

   『のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて
              足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり』
をはじめ、近代短歌の絶唱とされる59首の歌を残している。現在、母屋は改築され、傍らに建つ土蔵だけが当時の面影を伝えていた。
 生家のすぐ脇には、少年期の茂吉が学んだ「金瓶学校」も保存されていた。この建物は、1873(明治6)年、隣接する宝泉寺の住職が寺の敷地内に隠居所として建てたもので、寺子屋に用いられた後、金瓶尋常小学校として活用されたという。のちに、上野尋常小学校の新築で廃校となり、文化遺産として上山市に寄贈されたようだ。今にも着物姿の子供たちが飛び出してきそうな校舎の脇には、流れた時を語りかけるクスの巨木が聳え、幼い茂吉が遊んだ村の鎮守、金谷堂神社も見えた。

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77火葬場跡s.jpg78火葬場跡s.jpg79火葬場跡から宝泉寺s.jpg

終生の師と並び眠る茂吉の墓。
母へ寄せる哀切の歌。

 ところで、多感な茂吉少年には、師と仰ぐ人物がいたようだ。その人物とは「金瓶学校」を建立した宝泉寺の第四十世住職、佐原窿応(りゅうおう)和尚。茂吉は和尚に習字や漢文などを学び、その教えは、茂吉の精神形成に決定的な影響を及ぼしたという。寺の境内には、今なお終生の師として慕うように、和尚の墓に並び1953(昭和28)年2月25日、東京の自宅で70歳で逝去した茂吉の遺骨が分骨されて眠っている。「茂吉之墓」と記された簡素な墓石には、茂吉自身が55歳の時に考えた〈赤光院仁誉遊阿暁寂清居士〉の法名が刻まれ、生前に植えたアララギの木が、寒空のなか青々と枝を伸ばしていた。
 そこからさらに車で数分、かつて金瓶の火葬場跡だったという田園の一角には、母いくの骨を灰の中から拾い集める茂吉の姿を彷彿とさせる
   『灰のなかにははをひろへり朝日子(あさひこ)の のぼるがなかにははをひろへり』
の歌碑が、穢れない雪原に哀感をたたえ佇んでいた。

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夫婦で営む隠れ家的そば処。
自家製野菜のこだわり突き出し。

 底冷えする寒さに震えながら、帰りに偶然見つけた「想耕庵」は、知るひとぞ知る手打ち蕎麦の人気店。もともと、温泉宿だったという建物をそのまま利用した店は、立ち寄り温泉もできるという。蕎麦処として利用している建物は、かつて大石田にあった紅花豪商の離れで築100年を超える古民家。重厚な造りと年代物の調度品が目を引く続き間の座敷は、涼やかな川に面し、春の桜、夏の川床、秋の紅葉と風流に蕎麦が楽しめる趣向らしい。私はシンプルな「板そば」(並盛 800円)、連れは主人おすすめの「つけ麺」(1,200円)を注文。メニューには、オーナーの吉田さん夫妻が自家菜園で育てた無農薬野菜の突き出しが3品付く。気になる蕎麦は、県産そば粉〈でわかおり〉を使った喉越しもいい二八の細麺だ。とろりと濃厚な蕎麦湯に、凍えた体も生き返るようだった。
 茂吉が生涯に渡り愛したふる里で、知られざる「齋藤茂吉」の素顔に触れた今回。稀代の大歌人が残した多くの作品は、茂吉が信条とした〈生のあらわれ〉を歌い上げる繊細な素朴さにあふれ、今なお、人々の心にみずみずしい共感を響かせていた。
 折しも季節は、いのちの萌芽に目覚める3月。城下町かみのやまでは、春の訪れを祝う恒例の雛祭りも開催されるようだ。歌は訪ねる地それぞれに息づく物語の輝きだ。それは、言葉を超えて語り継がれる、風土の記憶なのかもしれない。





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2013年09月16日

8月 羽州街道中山宿

歴史に翻弄された
知られざる激戦地、中山宿。

2013年8月某日

01中山宿通りイメージ01s.jpg05西福寺01s.jpg10中山橋01s.jpg
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12寺子屋界隈01s.jpg17寺子屋界隈09s.jpg

 吹き抜ける風に、ちいさな秋の訪れを感じる8月終盤。前回訪れた楢下の宿場探訪(詳細はこちらのブログを参照)の楽しさにつられ、連れと2人、再び上山市街地から高畠方面へ約5分の場所にある「中山宿」へと、車を走らせる。 
 中山宿は、置賜郡と最上郡の境にあった地域で戦略上の要衝とされ、戦国時代には伊達領と最上領の藩境だったことで、度重なる激戦の舞台となった。中山には上杉家の最前線として県最大級の山城、中山城が築かれ、奥州の関ヶ原と言われる〈慶長出羽合戦〉においても上杉勢と最上勢が刀を交え、多くの犠牲者を出した。現在、宿場跡には楢下のような復原遺構はないものの、かつての歴史を物語る寺社や史跡が幾つか残されている。まずは、集落入口にある公民館で史跡マップ(1部150円)を購入。そのまま車を停め、早速、宿場の歴史探訪へ。
 公民館に隣接した「西福寺」は、弘安3(1280)年に開山されたと伝わる古刹だ。風雨にあらわれた本堂は、現在は無住。傍らにそびえる赤松の枯木が蔓に覆われ、今は静かな時を刻んでいた。寺のすぐ先には楢下宿の「新橋」同様、明治時代の西洋式土木技術で造られたアーチ式の石橋「中山橋」の姿も。今なお堅牢な橋は、中山宿の数少ない歴史遺構だ。橋の下へと伸びる道沿いには、江戸時代、集落の人々のために寺子屋で指南し、若くして世を去った修験道を偲ぶ「寺子屋の跡」の石碑や、蔵をたたえた風雅な佇まいの民家も見え、晩夏の陽射しを受けて飛び交うオニヤンマの薄羽が、硝子細工のように煌いていた。


19観音堂01s.jpg20観音堂03s.jpg22観音堂05より眺望s.jpg
24龍雲寺01向かい地蔵s.jpg25龍雲寺02s.jpg27龍雲寺04六面石どうs.jpg31光勝寺01s.jpg
35天満神社03s.jpg36天満神社04s.jpg39休み石01s.jpg

時代を見つめた寺社仏閣群。
集落に佇む遺風を訪ねて。

 次に向かったのは、紅山と呼ばれる小山の頂きにある「観音堂」。享保14(1843)年に建立されたと伝わる堂宇は、参拝者の減少による廃堂を避けるため、峰奥にあったものを昭和初期に現在の地へ移したようだ。桜やモミジが木陰をつくる境内からは、眼下に民家や畑、次に向かう龍雲寺や光雲寺等の景色が広がる。「しばらく動きたくないかも」と、笑う連れの言葉どおり、風の通り道となった山頂は、照りつける陽射しを避ける格好の涼み処。額の汗をぬぐい、ここでしばしの小休止。鳥の眺めに目を遊ばせる。
 参道入口にある〈向かい地蔵〉の姿が印象的な「龍雲寺」は、瀟洒な洋館を思わせる本堂や目をひく石仏など、不思議な雰囲気を持つ寺だ。創建は1601(慶長6)年。中山城主だった横田旨俊が開基となり、黙今昌関大和尚が1600(慶長5)年の〈慶長出羽合戦〉の戦死者の供養のため開山したとされる。現在の本堂は大正時代に再建されたものだ。境内には六面に仏像が彫られた〈六面石幢 ろくめんせきどう 重制〉や、百日紅の花が寄り添う明治天皇御巡幸碑もあった。
 一方、「光勝寺」は、堂々たる本堂を構えた寺で、武田信玄の家臣で、のちに僧侶となった松下右近が1593(文禄2)年に開山。中山宿は、同じく武田家家臣だった清水三河康徳が、足軽衆を引き連れ藩境の警護にあたるなど、武田家家臣ゆかりの地でもあったらしい。対象的な姿で隣り合う2つの寺は、領有の歴史に翻弄された中山宿の忘れ形見だろうか。
 そこから少し歩いた先には、中山城の鎮守である「天満神社」が、鬱蒼とした木立に護られるようにあった。社殿前には、阿吽の狛犬がほのぼのとした表情で鎮座している。集落最奥のY字路には、人力での荷運びが主流だった江戸末期頃まで使われたという、旅人のための「休み石」が、今なお人待ち顔で佇んでいた。


43白髭神社02s.jpg45白髭神社05s.jpg48広川原古戦場02s.jpg
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50首塚01s.jpg51窪坂界隈04s.jpg
52葉山舘8月15s.jpg53葉山舘8月01s.jpg54葉山舘8月03s.jpg57葉山舘8月10s.jpg
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古戦場で見た兵どもが夢のあと。
ゆく季節を味わう晩夏の宿。

 宿場の主要道から1本外れた国道13号線沿いの丘には、風格ある石鳥居が目をひく「白髭神社」も。714(和銅7)年、滋賀県の白髭神社本社の分霊を勧請した社は、産土神(うぶすながみ)として古来から信仰され、歴代領主をはじめ、伊達政宗や上杉景勝からも崇敬されたという。参道から境内にかけては桜の古木も見え、春には、すぐ東側を走る奥羽本線の電車の車窓からの花見も楽しめるようだ。一旦、駐車場に戻り車で向かった「広河原古戦場」は線路を超え、前川を渡った高岡山(たかごやま)の麓あたり。ここは上杉家の家老として名高い直江山城守兼続が、1600(慶長5)年の山形攻めの折、最上勢と激戦となった地で、近くには、最上、上杉の双方が戦の犠牲者の弔いのため築いた「首塚」が、生い茂る草にすっぽりと埋もれ、深い陰影を落としていた。河原宿から窪坂と呼ばれる付近には、古い蔵や大きな日本家屋が点在し、鱗雲の下、色とりどりのタチアオイが夢見るように咲いている。
 葉山舘に着いたのは、日暮れも間近の茜どき。のんびりと部屋の足湯に浸りながら、カナカナ蝉の声に静かに耳を傾ける。夕食は連れの希望で、夏の夕焼けを思わせる県産のロゼスパークリングワインで乾杯。目に舌に、ゆく夏を惜しむような美しさと、繊細な味わいを届けてくれる料理といい、客が希望した時間に合わせ、専用の土鍋で炊き上げられる朝食の白飯といい、細やかな心遣いを感じる一客一亭のもてなしだ。24時間楽しめる掛け流しの大浴場で朝風呂を満喫したあと、デザイナーズ家具が並ぶ湯上りラウンジで、ほてりを冷ます贅沢な夫婦だんらん。ロビーから望む池の錦鯉の涼しげな姿をのんびり眺めながら、今回も充ち足りた気分で宿をあとにした。


68高松観音01s.jpg69高松観音02s.jpg72高松観音06s.jpg
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76高松観音11s.jpg79むさかり絵馬04s.jpg80むさかり絵馬02s.jpg

親が子を想う願いが生んだ、
心あたかな風習、ムカサリ絵馬。

 ときに、山形の「ムカサリ絵馬」と呼ばれる、一風変わった風習をご存知だろうか。「ムカサリ」とは方言で〈結婚(式)〉や〈花嫁〉を意味する。折しも葉山舘の近くに、それを祀る寺のひとつがあることを伺い寄ってみることにした。
 向かったのは、最上三十三観音の第10番札所「高松観音」。国道458号線の道沿いにある大きな石鳥居が目印だ。木立に囲まれた石段を登ると本堂が見える。開け放たれた扉の両脇には巨大な大ワラジが奉納されている。が、それ以上に私たちの目を釘付けにしたのが、建物の柱から壁に至るまで、びっしりと貼られたおびただしい数のカラフルな〈納札〉だ。異様なまでのその姿に驚きながら、おそるおそる靴を脱いで本堂に上がり、中を見上げた先に、目指すそれはあった。「ムカサリ絵馬」だ。実はこの絵馬、簡単に言えば〈故人の結婚〉。つまり、戦争等で未婚のまま亡くなった我が子の供養のため、架空の伴侶の絵を描き、あの世での幸せを願う風習なのだ。絵柄には主に男女の祝言の様子などが描かれる。地域的には、村山地方の中でも特に東部地域で顕著に見られるものだという。
 本堂の内陣にも兵隊姿の故人の写真が無数に祀られてあった。無言のまま2人で手を合わせたあと、近くの朱印所で話を伺うと、絵馬は明治後期から約100年に渡り行われた風習だという。色鮮やかな〈納札〉は、巡拝回数によって白や赤、黄色と8色もあり、10回以上が金色。さらに33回をひと巡りとした100回巡礼は、金糸や銀糸を織り込んだ〈錦札〉になるという。朱印所には巡礼を遂げた歴代の人々の錦札が額装されていた。
 「なんだか、胸が一杯…」言葉少なに、そう感想をもらす連れ。人々の祈りが形と化した姿に、いつの時代も変わらない子を想う哀切な親心と、神仏への信奉という、深淵な世界に触れる忘れられない出会いとなった。


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茂吉が愛した風景にひたる。
山と風と花と、かき氷。

 この夏限定で、葉山舘で開催している風流な「氷すい」が上山城の麓の湯町地区にあると聞き、「山城屋」へと向かう。ここは、大正・昭和期の歌人、斉藤茂吉の弟がかつて経営していた宿で、茂吉自身もたびたび訪れている。現在、建物は営業していないが、葉山舘が夏の催しとして、今回、特別にオープンさせたようだ。
 登録有形文化財でもある「山城屋」は、1922(大正11)年の建築。百日紅の花が咲く庭園に建つ木造建築は、白壁の蔵とのコントラストも美麗だ。今回の催しのために、糠袋で床磨きをしたという館内は木肌の艶も味わい深く、二階の廻り広縁には色硝子をはめ込んだ窓や、幾何学意匠の高欄がしつらわれ、モダンな雰囲気も漂う。窓の外には蔵王連峰の遠望も広がり、茂吉もこの景色を飽かずに眺めていたのだという。
 そんな場所で楽しめる「氷すい」は、食べ応えのあるどっしりとした存在感。淡雪のような食感の氷をはじめ、餡やシロップ、練乳に至るまで、すべて手づくりという凝りようだ。私は名前もユニークな「M・A・M(抹茶あずきミルク)」(850円)、連れは完熟桃を使った紅花入りの「もも雪」(850円)を注文。途中から県産の牛乳をかける、二度楽しめる味わいも新鮮だ。葉山舘が仕掛ける次なる遊び心に期待も膨らむ。
 帰りに寄った「松茶庵」の期間限定の山形名物「冷やしラーメン」(650円 )と、村山地方の郷土料理〈だし〉をのせた「だしそば」(800円)も、実に美味だった。ダッタンそば茶による「そば茶プリン」(300円)も香ばしくクリーミーな絶品。想像を嬉しく裏切る山形グルメのクオリティ、まさに恐るべしだ(笑)。
 記録的猛暑に閉口した今年の夏。それさえも、過ぎてゆく姿を知れば、哀愁を感じずにはいられない。紅つるし柿が、上山の秋に色を添える季節もまもなく。町の佇まいや味わい、風習に、五感で感じるよりも深い、人々が通わせる思いを見た、美しい夏時間だった。

 
 
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2013年06月14日

5月 羽州街道楢下宿

軍事的要衝だった
羽州街道の宿場街、楢下宿。

2013年5月某日

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04浄林寺s.jpg10浄林寺鐘s.jpg
11浄林寺裏山s.jpg12浄林寺裏山s.jpg14浄林寺裏山よりs.jpg13浄林寺裏碑s.jpg

 山形県の南東部、上山市にある「かみのやま温泉」は、県内の湯野浜温泉、福島県の東山温泉とともに、古く“奥羽三楽郷”とうたわれた名湯だ。上山市は城下町、宿場町、温泉街の文化を擁する全国的にも珍しい都市だという。そんな街の魅力に惹かれ、温泉好きな連れの二つ返事で、一路、新緑の出羽路へ。
 奥州街道と並び、東北の二大街道とされる羽州街道は、奥州街道から桑折(こおり)宿で分岐し、金山峠を越え出羽国(現在の山形県と秋田県)を縦断、油川宿(青森県青森市)で再び奥州街道(松前道)と合流する江戸時代の脇往還(五街道に次ぐ主要街道)だ。街道は、かつて諸大名の参勤交代で利用され、物資や文化を運ぶ奥羽の大動脈だった。
 「楢下(ならげ)宿」は、この羽州街道に1602(慶長7)年に開設された宿場町で、大名の宿泊や休憩所である本陣、脇本陣をはじめ、問屋、旅籠屋、茶店などを備え交通の要所として栄えた。現在、楢下には当時の面影を伝える歴史的遺構が復原され点在。1997(平成9)年に「羽州街道楢下宿・金山越」として国の史跡に指定されている。
 上山市街から楢下までは国道13号線を七ヶ宿方面へ車で約20分。街歩きをするなら、「旧武田家」、または「大黒屋」に隣接した駐車場がおすすめだ。ゆるやかな勾配の両脇に住宅が並ぶ閑静な集落は、春真っ盛りの花々であふれかえっていた。
 藩境に位置した楢下宿は、出羽国に入り初めて本陣を置く宿場として関所が設けられ、出入り人や荷物が厳しく管理された。そのため、または、元来の自然的地形なのか、明治時代に新道ができるまで、宿場は川を“コの字型”に2回横断する、全国的にも特異な形を呈していた。集落のほぼ中央、道がちょうど屈曲する境の小高い丘に、1753(宝暦3)年に建立された「浄休寺」は、軍事的拠点だったのだろうか。見事な龍雲紋の彫刻がほどこされた重厚な本堂と、風雪に耐えた樹齢300年の大銀杏が、不落の古社の威厳を見せていた。寺の裏手に広がる墓所の小山には、鬱蒼と生い茂る鎮守の森に見え隠れする古い石段もあり、150段ほどの階段を上った頂きには、供物が供えられた小さな石祠もあった。麓には赤松の大木が寄り添う祠も見え、おとぎ話の世界を髣髴とさせる。

16新町めがね橋s.jpg17新町めがね橋横公園s.jpg19庄内屋s.jpg
20庄内屋s.jpg24庄内屋s.jpg25庄内屋s.jpg
28大黒屋s.jpg36庄内屋横道s.jpg

風趣あふれる水と橋の佇まい。
往時を語る歴史的遺構群。

 新町、下町、横町、上町の四町が川をまたぎ、鉤(かぎ)型に広がる楢下宿は、直線的に配置された宿場町と異なり、変化に富む佇まいが広がる。そのひとつが金山川と橋がつくりだす水際の景色だ。中でも「絵ごころがあればねぇ…」と、連れを悔しがらせた「新橋」(通称 新町めがね橋)は、周囲の自然と調和する美しいアーチ式の石橋だ。洪水の度に流出していた従来の木橋に代わり、1880(明治13)年、西洋の最新土木技術を導入して造られたこの橋は、建設費の一部を地元住民が借入してまかなったことから、通行料を徴収していたという。傍らに整備された親水公園「かわばた広場」にはレトロな井戸ポンプもあり、夏に涼を求め、ここに集う人々の賑わいが浮かぶようだ。
 橋を渡った先は下町と呼ばれる宿場の中心で、広い道沿いには準本陣級の格式を誇った脇本陣「庄内屋」もあった。楢下にある歴史的建物は、内部の見学が自由だ。この地に残る遺構の中で最も古い18世紀のものとされる「庄内屋」は、その屋号どおり秋田藩や庄内藩の常宿として使用された曲がり家だ。道の先には1808(文化5)年に建てられ、古くから楢下宿の旅籠を務める由緒ある家柄だった「大黒屋」もある。現在、建物は地域の交流拠点としても活用されているとのこと。通りすがりの住民の方が気さくに教えてくれた。付近の民家では年配の女性が、春の陽射しの下、畑の手入れにいそしんでいる。歴史を紡ぐ人々の営みは、今なお続いているのだ。
 

38庄内屋裏山の墓s.jpg37庄内屋裏道s.jpg36観音堂s.jpg
41須川の流れs.jpg42須川横の花道s.jpg44水と蔵s.jpg
45粟野豆腐店s.jpg48粟野豆腐店若女将s.jpg47粟野豆腐店s.jpg

水と生きる老舗のなりわい。
宿場町で味わう鄙のスローフード。

 公民館で入手した地図を頼りに「大黒屋」の向かいの鄙道にある「樋山文駄ゆかりの観音堂」を探す。次第に山深くなる道に首をかしげつつ、額に汗して上った先にあったのは苔むした石塔群と、さくらんぼ農園。「やっぱり違ったみたいね」と、少し機嫌を損ねた連れをなだめ、迷い道も旅のご愛嬌と、少々、愉快な気分で、もと来た道を下りる。目指す観音堂は上り口からすぐ、細い脇道を進んだ民家の裏にあったようだ。“樋山文駄”の詳細は不明だが、出羽上山藩の第4代藩主、松平信亨の時代、過酷な“竿打ち”(田畑の検地)に上訴し、農民の煽動を理由に24歳の若さで処刑された人物のようだ。非業の最期を遂げた青年を悼む観音堂には、瑞々しい花がたむけられていた。
 御堂に手を合わせたあと、集落の東側にある須川へしばしの寄り道。夏の川遊びスポットでもある須川は、土手沿いに藤やライラックの花が咲き誇り、貯水池に姿を映す白壁の蔵や、美しい野道の傍らを涼やかな清流が陽春の喜びを詠いながら流れてゆく。
 再び集落へ戻る道で見つけた「粟野豆腐店」の“あるき豆腐”なる貼紙。気になり、店の若女将、粟野さんに尋ねると、ここの手づくり豆腐がすぐ食べられるのだという。聞けば店は明治初期からこの地で生業する老舗で、現在4代目。小休止とばかりに早速、1丁(100円)注文。大きめの木綿豆腐を受け取り、そのまま近くの「大黒屋」の軒先ベンチで、青空の下、豆の香りが広がる少し堅めの豆腐をいただく。味付けは粟野豆腐店と隣接する「丹野醤油店」の“味しょうゆ”だ。丹野醤油店もまた、昔ながらの手作業によるこだわりの味噌、醤油を造り続ける老舗だという。楢下の景色によく似合う、まさに贅沢なスローフードだ。

52下町めがね橋s.jpg54下町めがね橋下の散策路s.jpg55山田屋s.jpg62山田屋s.jpg
65旧武田家.JPG67旧武田家s.jpg73旧武田家s.jpg
76滝沢屋s.jpg82滝沢屋s.jpg
86滝沢屋s.jpg85滝沢屋s.jpg87滝沢屋s.jpg88滝沢屋s.jpg

大名を迎えた脇本陣。
豪壮かつ端正な日本家屋の美。

 金山川に架かるもうひとつの石橋「覗(のぞき)橋」(通称 下町めがね橋)は、新橋をそのまま小ぶりにした姿だ。橋のたもとからは、新橋まで川沿いに続く道が延び、水辺散策が楽しめる。見上げると橋の向こうの高台に、明治時代の日本家屋「山田屋」が風雅な姿でそびえていた。眼下に川を望む広い母屋座敷の窓からは、金山川と宿場町の胸のすく涼景が広がる。建物には立派な蔵もあり、蚕棚もあったのだろう。黒光りする柱に掲げられた“お蚕泣かすな 桑肥やせ”の火伏札が流れた歴史を饒舌に物語っている。
 ゆるゆると路地の風景を楽しみながら、集落をぐるりと歩き再び「旧武田家」へ。新町の西側に位置するこの家は1758(宝暦8)年の屋敷割絵図に旅籠屋として記されている。座敷は旧尾形家住宅(上山市下生居)にも見られる、筵の下に藁や籾殻を敷いた昔ながらの素朴な仕様で、足の裏に伝わるやわらかな感触が印象的だった。
 集落から車で約5分。最後に訪れた脇本陣「滝沢屋」は、江戸時代、庄屋を務めた由緒ある家柄だ。美しい田園が広がる楢下宿の入口、「一里塚」の石標付近に1994(平成6)年に移築復原された建物は、約250年の歴史を誇るという。11.8間(約21メートル)を超える間口に広縁がしつらわれた豪壮な造りは、庄屋屋敷に相応しい堂々たる構え。内部の見学はここのみ有料(大人200円)だ。“平入り曲家”と呼ばれる建物内には、当時の商いを示す貴重な資料をはじめ、使用していた家具や道具類が展示されている。“扠首梁(さすはり)”と呼ばれる、入口の屋根に組まれた長さ3間半(約8.1メートル)の材をはじめ、長い広縁には格子を取り付けた板戸“しとみ”が設けられ、日本家屋の美意識が香る。「所有者の丹野家は、もともと造り酒屋で、家紋も酒器を模した“二つ瓶子(へいじ)”です」今なお楢下に暮らしているという、管理棟の粟野さんが説明してくれた。ちなみに楢下には「丹野」や「粟野」、「佐藤」姓が多い。例にもれず、住民の高齢化と過疎に悩む楢下でも、現在、自治体や住民が一体となり、文化保存のための様々な取り組みが行われているのだという。

92田んぼ道s.jpg93原口そばs.jpg94原口そばs.jpg
96原口そばs.jpg98原口そばs.jpg99原口そばs.jpg
100さくらんぼソフトs.jpg102葉山館ディナーs.jpg103葉山館ディナーs.jpg104葉山館朝風呂s.jpg

築180年の古民家でいただく、
もっちり絶品の名物そばがき。

 少し道に迷いながら昼食に訪ねた「原口そば屋」は、楢下から車で約10分。のどかな田園と果樹園に囲まれた場所にあった。店は大正初期から続く伝統ある手打ちそば屋で、蕎麦どころ山形でも絶大な人気を誇る、こだわりの10割そばが楽しめる。築180年の古民家を改装した建物は雰囲気もたっぷり。専門店らしくメニューは、もりそばと、その大盛り、そばがき(納豆・ごま)と酒&ビール、ジュースのみ。早速、もりそば(900円)2つと、地元でも評判の、そばがき(納豆・550円)を注文。運ばれてきたそばがきを、一口食べた瞬間、思わず2人でうなってしまった。「これ、本当にそばがき?」連れをそう言わしめた餅のような食感は、まさに噂どおりの絶品だ。平打ちのそばも、そばの香りが広がるコシのある歯ごたえで、鰹だしの甘めのツユとよく絡む。薬味はネギと卓上の一味唐辛子のみ。座敷に飾られた上山市長の「鶴々亀々」(笑)の書といい、無造作に貼られた著名人の色紙の山といい、強気な店の遊び心を感じさせる構えも小気味いい。帰りがてら立ち寄ったドライブインでは、さくらんぼソフトも堪能。本格的な観光シーズンを迎える果樹王国の楽しみは、まさにこれからだ。
 かみのやま温泉でお世話になった「葉山舘」は、女性に優しい心遣いが定評の湯宿だった。郷里への愛情と、もてなしの心意気が伝わる手づくりの懐石料理は、感性あふれる美味揃い。夕食は2種類ずつ用意された肉料理、魚料理、お食事からひとつずつセレクトできる。地元ならではの郷土料理もあり、日本酒やワイン、焼酎やソフトドリンクにいたるまで、山形産にこだわったラインナップも魅力的だ。3タイプある部屋は、いずれも源泉を有した湯元ならではの、かけ流しの温泉風呂付。私たちが泊まった部屋には、上山市街地と蔵王連峰を望む贅沢な足湯と眺望風呂もあり、月明かりの夜景や、朝焼けの幻想風景を別邸気分でたっぷりと満喫。“宿に旅する”愉しみとは、まさにこのことだろう。

 心奪われる里山の景色と、知られざる歴史にふれた楢下宿漫遊。風に吹かれ、花を愛で、そこで暮らす人々とふれあいながら歩いて訪ねるほどに、旅は新しい横顔を見せてくれる。景色に人に味わいに。険しい山嶺に育まれた山形の文化は、訪れる季節の眩しさを、どこよりも鮮やかに映しだす冒険探訪かもしれない。
posted by kaminoyamaaruku at 19:23 | 日記 | 更新情報をチェックする
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