2013年09月16日

8月 羽州街道中山宿

歴史に翻弄された
知られざる激戦地、中山宿。

2013年8月某日

01中山宿通りイメージ01s.jpg05西福寺01s.jpg10中山橋01s.jpg
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12寺子屋界隈01s.jpg17寺子屋界隈09s.jpg

 吹き抜ける風に、ちいさな秋の訪れを感じる8月終盤。前回訪れた楢下の宿場探訪(詳細はこちらのブログを参照)の楽しさにつられ、連れと2人、再び上山市街地から高畠方面へ約5分の場所にある「中山宿」へと、車を走らせる。 
 中山宿は、置賜郡と最上郡の境にあった地域で戦略上の要衝とされ、戦国時代には伊達領と最上領の藩境だったことで、度重なる激戦の舞台となった。中山には上杉家の最前線として県最大級の山城、中山城が築かれ、奥州の関ヶ原と言われる〈慶長出羽合戦〉においても上杉勢と最上勢が刀を交え、多くの犠牲者を出した。現在、宿場跡には楢下のような復原遺構はないものの、かつての歴史を物語る寺社や史跡が幾つか残されている。まずは、集落入口にある公民館で史跡マップ(1部150円)を購入。そのまま車を停め、早速、宿場の歴史探訪へ。
 公民館に隣接した「西福寺」は、弘安3(1280)年に開山されたと伝わる古刹だ。風雨にあらわれた本堂は、現在は無住。傍らにそびえる赤松の枯木が蔓に覆われ、今は静かな時を刻んでいた。寺のすぐ先には楢下宿の「新橋」同様、明治時代の西洋式土木技術で造られたアーチ式の石橋「中山橋」の姿も。今なお堅牢な橋は、中山宿の数少ない歴史遺構だ。橋の下へと伸びる道沿いには、江戸時代、集落の人々のために寺子屋で指南し、若くして世を去った修験道を偲ぶ「寺子屋の跡」の石碑や、蔵をたたえた風雅な佇まいの民家も見え、晩夏の陽射しを受けて飛び交うオニヤンマの薄羽が、硝子細工のように煌いていた。


19観音堂01s.jpg20観音堂03s.jpg22観音堂05より眺望s.jpg
24龍雲寺01向かい地蔵s.jpg25龍雲寺02s.jpg27龍雲寺04六面石どうs.jpg31光勝寺01s.jpg
35天満神社03s.jpg36天満神社04s.jpg39休み石01s.jpg

時代を見つめた寺社仏閣群。
集落に佇む遺風を訪ねて。

 次に向かったのは、紅山と呼ばれる小山の頂きにある「観音堂」。享保14(1843)年に建立されたと伝わる堂宇は、参拝者の減少による廃堂を避けるため、峰奥にあったものを昭和初期に現在の地へ移したようだ。桜やモミジが木陰をつくる境内からは、眼下に民家や畑、次に向かう龍雲寺や光雲寺等の景色が広がる。「しばらく動きたくないかも」と、笑う連れの言葉どおり、風の通り道となった山頂は、照りつける陽射しを避ける格好の涼み処。額の汗をぬぐい、ここでしばしの小休止。鳥の眺めに目を遊ばせる。
 参道入口にある〈向かい地蔵〉の姿が印象的な「龍雲寺」は、瀟洒な洋館を思わせる本堂や目をひく石仏など、不思議な雰囲気を持つ寺だ。創建は1601(慶長6)年。中山城主だった横田旨俊が開基となり、黙今昌関大和尚が1600(慶長5)年の〈慶長出羽合戦〉の戦死者の供養のため開山したとされる。現在の本堂は大正時代に再建されたものだ。境内には六面に仏像が彫られた〈六面石幢 ろくめんせきどう 重制〉や、百日紅の花が寄り添う明治天皇御巡幸碑もあった。
 一方、「光勝寺」は、堂々たる本堂を構えた寺で、武田信玄の家臣で、のちに僧侶となった松下右近が1593(文禄2)年に開山。中山宿は、同じく武田家家臣だった清水三河康徳が、足軽衆を引き連れ藩境の警護にあたるなど、武田家家臣ゆかりの地でもあったらしい。対象的な姿で隣り合う2つの寺は、領有の歴史に翻弄された中山宿の忘れ形見だろうか。
 そこから少し歩いた先には、中山城の鎮守である「天満神社」が、鬱蒼とした木立に護られるようにあった。社殿前には、阿吽の狛犬がほのぼのとした表情で鎮座している。集落最奥のY字路には、人力での荷運びが主流だった江戸末期頃まで使われたという、旅人のための「休み石」が、今なお人待ち顔で佇んでいた。


43白髭神社02s.jpg45白髭神社05s.jpg48広川原古戦場02s.jpg
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50首塚01s.jpg51窪坂界隈04s.jpg
52葉山舘8月15s.jpg53葉山舘8月01s.jpg54葉山舘8月03s.jpg57葉山舘8月10s.jpg
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62葉山舘8月26s.jpg64葉山舘8月20s.jpg

古戦場で見た兵どもが夢のあと。
ゆく季節を味わう晩夏の宿。

 宿場の主要道から1本外れた国道13号線沿いの丘には、風格ある石鳥居が目をひく「白髭神社」も。714(和銅7)年、滋賀県の白髭神社本社の分霊を勧請した社は、産土神(うぶすながみ)として古来から信仰され、歴代領主をはじめ、伊達政宗や上杉景勝からも崇敬されたという。参道から境内にかけては桜の古木も見え、春には、すぐ東側を走る奥羽本線の電車の車窓からの花見も楽しめるようだ。一旦、駐車場に戻り車で向かった「広河原古戦場」は線路を超え、前川を渡った高岡山(たかごやま)の麓あたり。ここは上杉家の家老として名高い直江山城守兼続が、1600(慶長5)年の山形攻めの折、最上勢と激戦となった地で、近くには、最上、上杉の双方が戦の犠牲者の弔いのため築いた「首塚」が、生い茂る草にすっぽりと埋もれ、深い陰影を落としていた。河原宿から窪坂と呼ばれる付近には、古い蔵や大きな日本家屋が点在し、鱗雲の下、色とりどりのタチアオイが夢見るように咲いている。
 葉山舘に着いたのは、日暮れも間近の茜どき。のんびりと部屋の足湯に浸りながら、カナカナ蝉の声に静かに耳を傾ける。夕食は連れの希望で、夏の夕焼けを思わせる県産のロゼスパークリングワインで乾杯。目に舌に、ゆく夏を惜しむような美しさと、繊細な味わいを届けてくれる料理といい、客が希望した時間に合わせ、専用の土鍋で炊き上げられる朝食の白飯といい、細やかな心遣いを感じる一客一亭のもてなしだ。24時間楽しめる掛け流しの大浴場で朝風呂を満喫したあと、デザイナーズ家具が並ぶ湯上りラウンジで、ほてりを冷ます贅沢な夫婦だんらん。ロビーから望む池の錦鯉の涼しげな姿をのんびり眺めながら、今回も充ち足りた気分で宿をあとにした。


68高松観音01s.jpg69高松観音02s.jpg72高松観音06s.jpg
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76高松観音11s.jpg79むさかり絵馬04s.jpg80むさかり絵馬02s.jpg

親が子を想う願いが生んだ、
心あたかな風習、ムカサリ絵馬。

 ときに、山形の「ムカサリ絵馬」と呼ばれる、一風変わった風習をご存知だろうか。「ムカサリ」とは方言で〈結婚(式)〉や〈花嫁〉を意味する。折しも葉山舘の近くに、それを祀る寺のひとつがあることを伺い寄ってみることにした。
 向かったのは、最上三十三観音の第10番札所「高松観音」。国道458号線の道沿いにある大きな石鳥居が目印だ。木立に囲まれた石段を登ると本堂が見える。開け放たれた扉の両脇には巨大な大ワラジが奉納されている。が、それ以上に私たちの目を釘付けにしたのが、建物の柱から壁に至るまで、びっしりと貼られたおびただしい数のカラフルな〈納札〉だ。異様なまでのその姿に驚きながら、おそるおそる靴を脱いで本堂に上がり、中を見上げた先に、目指すそれはあった。「ムカサリ絵馬」だ。実はこの絵馬、簡単に言えば〈故人の結婚〉。つまり、戦争等で未婚のまま亡くなった我が子の供養のため、架空の伴侶の絵を描き、あの世での幸せを願う風習なのだ。絵柄には主に男女の祝言の様子などが描かれる。地域的には、村山地方の中でも特に東部地域で顕著に見られるものだという。
 本堂の内陣にも兵隊姿の故人の写真が無数に祀られてあった。無言のまま2人で手を合わせたあと、近くの朱印所で話を伺うと、絵馬は明治後期から約100年に渡り行われた風習だという。色鮮やかな〈納札〉は、巡拝回数によって白や赤、黄色と8色もあり、10回以上が金色。さらに33回をひと巡りとした100回巡礼は、金糸や銀糸を織り込んだ〈錦札〉になるという。朱印所には巡礼を遂げた歴代の人々の錦札が額装されていた。
 「なんだか、胸が一杯…」言葉少なに、そう感想をもらす連れ。人々の祈りが形と化した姿に、いつの時代も変わらない子を想う哀切な親心と、神仏への信奉という、深淵な世界に触れる忘れられない出会いとなった。


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茂吉が愛した風景にひたる。
山と風と花と、かき氷。

 この夏限定で、葉山舘で開催している風流な「氷すい」が上山城の麓の湯町地区にあると聞き、「山城屋」へと向かう。ここは、大正・昭和期の歌人、斉藤茂吉の弟がかつて経営していた宿で、茂吉自身もたびたび訪れている。現在、建物は営業していないが、葉山舘が夏の催しとして、今回、特別にオープンさせたようだ。
 登録有形文化財でもある「山城屋」は、1922(大正11)年の建築。百日紅の花が咲く庭園に建つ木造建築は、白壁の蔵とのコントラストも美麗だ。今回の催しのために、糠袋で床磨きをしたという館内は木肌の艶も味わい深く、二階の廻り広縁には色硝子をはめ込んだ窓や、幾何学意匠の高欄がしつらわれ、モダンな雰囲気も漂う。窓の外には蔵王連峰の遠望も広がり、茂吉もこの景色を飽かずに眺めていたのだという。
 そんな場所で楽しめる「氷すい」は、食べ応えのあるどっしりとした存在感。淡雪のような食感の氷をはじめ、餡やシロップ、練乳に至るまで、すべて手づくりという凝りようだ。私は名前もユニークな「M・A・M(抹茶あずきミルク)」(850円)、連れは完熟桃を使った紅花入りの「もも雪」(850円)を注文。途中から県産の牛乳をかける、二度楽しめる味わいも新鮮だ。葉山舘が仕掛ける次なる遊び心に期待も膨らむ。
 帰りに寄った「松茶庵」の期間限定の山形名物「冷やしラーメン」(650円 )と、村山地方の郷土料理〈だし〉をのせた「だしそば」(800円)も、実に美味だった。ダッタンそば茶による「そば茶プリン」(300円)も香ばしくクリーミーな絶品。想像を嬉しく裏切る山形グルメのクオリティ、まさに恐るべしだ(笑)。
 記録的猛暑に閉口した今年の夏。それさえも、過ぎてゆく姿を知れば、哀愁を感じずにはいられない。紅つるし柿が、上山の秋に色を添える季節もまもなく。町の佇まいや味わい、風習に、五感で感じるよりも深い、人々が通わせる思いを見た、美しい夏時間だった。

 
 

【羽州街道中山宿 詳細】


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■中山宿

置賜郡と最上郡の郡境にあった町で戦略上の重要拠点とされ、戦国時代には伊達領と最上領の境として、この周辺が激戦地となった。中山には中山城が築かれ、双方の攻防戦が繰り広げられ、関ヶ原の合戦では上杉勢と最上勢との戦場となり、双方多大な犠牲者がでたとされる。江戸時代には米沢藩と上山藩の藩境として、米沢藩では引き続き中山を重要視。一国一城令による中山城の廃城後は、麓に御役屋(陣屋構)を構え、足軽を配し藩境の守りを固めた。番所では人物や物品改めなど、領国の流出入が厳しく制約された。
住所/山形県上山市中山
TEL/023-672-1111(上山市観光課)

01中山宿通りイメージ01.jpg22観音堂05より眺望.jpg04足軽屋敷界隈.jpg

■西福寺

1280(弘安3)年に一向上人俊聖大和尚が開山したという中山宿最古の寺院。仏向寺(天童市)を本山とする末寺で、山形県内では少ない浄土宗の寺。度重なる火災により、現在の本堂は1848(嘉永元)年に再建された寄棟、銅板葺きの古建築物。本尊は阿弥陀如来像で、境内には上山市内では少ないとされる「四十八夜供養等」や「十二神将の石仏」がある。
住所/山形県上山市中山字上町3155

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■中山橋

1880(明治13)年に竣工したアーチ式の石橋。橋長さ11.3m、全幅6.7m。より堅固な構造にするため、アーチ部分の石組みが2重になっている。中山石と称する凝灰岩を石材として使用して親柱には「奈可やまはし」と陰刻されている。当時のカラジュク川は洪水が多く、何度も木製の橋が流されたため、山形の初代県令である三島通庸が命じ西洋式の石橋が架けられた。市指定有形文化財。
TEL/023-672-1111(上山市観光課)

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■寺子屋の碑

中山宿には江戸時代後期から遍照院で寺子屋が開設。そこで教師となり、中山宿のために尽力を尽くした羽黒派の修験道、天目道人は、1819(文政2)年、38歳の若さでこの世を去った。石碑は上人の死を悼む寺子達が上人の実績を称え、この地に建立した。

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■観音堂

創建は1843(天保14)年といわれ、別名「コロリ観音」と呼ばれる金箔塗りの木造如意輪観音坐像を本尊として信仰を集めた。もと、龍雲寺の裏山、通称「お観音山」の峰奥に建立されていたが、明治以降は参拝者も減少し廃堂に近い状態となり、昭和7年に、集落から程近い「紅山」に遷した。

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■龍雲寺

福島県の会津高田町の龍門寺の黙今昌関大和尚が開山したと伝えられる曹洞宗の寺。1601(慶長6)年、中山城主の横田旨俊が1600(慶長5)年、出羽国での関ヶ原の戦い(最上合戦)の時の戦死者の追善供養に開基、建立。1901(明治34)年の大火を経て、現在の本堂は1923(大正12)年に再建されたもの。時代背景から、古来の寺院建築とは異なり洋風建築の要素を取り込んだもので寄棟鉄板葺きの屋根には棟飾りがしつらわれている。 本尊は釈迦牟尼仏。寺宝に狩野幸信の涅槃図がある。
住所/山形県上山市中山2569-1
TEL/023-676-2225

26龍雲寺03.JPG24龍雲寺01向かい地蔵.jpg27龍雲寺04六面石どう.jpg 


■光勝寺

1593(文禄2)年、仏門に入り空心と称した、武田信玄の家臣の松下右近が開基、開山。中山宿には、同じく武田家の家臣だった 清水三河康徳が足軽衆を引き連れて藩境を警護するなど武田家家臣ゆかりの土地柄。1901(明治34)年の火災で堂宇は焼失。現在の建物は1974(昭和49)年に再建したもの。本尊は阿弥陀如来像。
住所/山形県上山市中山2565
TEL/023-676-2195

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■天満神社

1598(慶長3)年に中山城の鎮守社として菅原道真の神霊を勧請したのが始まりとされ、当初は万年堂と称した。1676(延宝4)年には御役屋(1国1城令発令後は米沢藩では城ではなく御役屋と称した)を預る黒河右衛門義元が材木など資材を寄進し、棟梁である新三郎を中心に村をあげて社殿を建立。1804(文化元)年に老朽のため再建し1810(文化6)年に石鳥を寄進、社殿の前に鎮座する阿吽の狛犬も上山市内では大変珍しいものとされる。
住所/山形県上山市中山字西原8-2642
35天満神社03.JPG34天満神社01.JPG36天満神社04.JPG


■休み石

江戸時代の末期頃まで、荷車は一般庶民には手の出せない貴重品で、荷物は人力によって運ばれた。休み石は、道中、荷を背負ったまま休む人のために作られ配された石。それまで主流だった丸太や木組みのものは、風雨による傷みが早いため、耐久性に優れた石が用いらるようになった。正面には「禁煙会」と刻されている。

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■白髭神社

創建は714(和銅7)年。白髭神社本社(滋賀県高島市)の分霊を勧請し社殿を建立した事が始まりとされる。歴代領主から崇敬され伊達政宗からは社領5石が奉納され、上杉景勝も敬神していたという。正面の鳥居は江戸時代末期から明治時代初期の奉納といわれ、上山市内ではトップクラスの太さを誇る。元々、鳥居は集落から参道が伸び正面を向いていたが1962(昭和37)年の国道13号線の工事に伴い移動。古来から産土神として現在でも信仰され、毎年9月28・29日の祭礼では神木〈サイカチ〉で作った30kgもある1本造りの獅子頭(明治34製作)が町内を練り歩く。
住所/山形県上山市中山字新田町2822

43白髭神社02.JPG44白髭神社03.JPG45白髭神社05.JPG

■広河原古戦場跡

中山の北側に位置する海抜381mの高岡山(たかごやま)の麓、前川流域の一帯は、奥州の関ヶ原と言われる〈慶長出羽合戦〉における、最上上杉両軍の激戦地。
1600(慶長5)年9月17日、上杉家老、直江山城守兼続は中山城主、横田旨俊を後陣に、木村造酒丞、清水三河守を先陣に、足軽100人を率いて山形を攻めるため上山城へ出陣。しかし、敵地、最上領で戦況が不利となり引き揚げてきた際、大勢の最上勢が広河原に陣を取り襲撃。これを迎え打ち激戦となった。この合戦は局地戦とはいえ、日本の歴史を左右した重要な戦とされている。

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■首塚

広河原合戦で命を落とした上杉、最上の多くの犠牲者の御霊を鎮めるため、両軍により築かれた塚。

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■高松観音(高松山 光明院)
創建は724〜729(養老8〜神亀6)年代。本尊は正観音坐像で行基の作。伝承では行基が高松のこの地に庵を構え、この像を人々に礼拝させたのが始まりとされ、その後、山の上にお堂を建てて安置した。この観音の霊験が聖武天皇の耳に達し、御祈願所に指定されたことで、以後、大名から領主、一般庶民まで多くの崇敬を集めたという。松平家が上山の藩主となってからは、鎮城護国の霊場として30石が寄附された。1865(慶応元)年の山火事で堂は焼失したが、時の別当、光明法印が猛火のなか本尊を運び出し事なきを得た。現在の本堂は1872(明治5)年、再建されたもの。最上三十三観音第11番札所。
毎年12月には、お堂の近くにある高松集会センターで、つきあげたもちを千本杵で空中高くさしあげる年越しもちつき「高松観音お年越裸餅搗行事」(市指定無形文化財)が行われる。
住所/山形県上山市高松53
TEL/023-672-0440

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・ムカサリ絵馬

「ムカサリ」は、方言で「結婚(式)」や「花嫁」の意。 「ムカサリ絵馬」とは、病気や戦争で幼くして亡くなった子の歳を数え、結婚年齢になったときに架空の結婚式の様子を絵に描き奉納した村山地方にある風習で、特に村山市、東根市、天童市、山形市、上山市といった東部で顕著にみられる。 現存する最古のものは明治後期からみられ、100年余りの歴史を持つ。ムカサリ絵馬の奉納で多いのは男性のもので、長男であると考えられる。家を継ぐべき長男を冥界で結婚させることによって、その弟、あるいは娘婿や養子が家を継ぐことを妨げないように配慮したものといわれている。
76高松観音11.JPG80むさかり絵馬02.jpg79むさかり絵馬04.JPG

■山城屋

1922(大正11)年に造られた木造三階建の純和風老舗宿。現在、宿としては営業はしていないものの、古き良きかみのやま温泉の貴重な遺構として、登録有形文化財に指定。山城屋の先々代主人は、大正・昭和時代に活躍した上山市出身の歌人、斉藤茂吉の実弟「直吉」で、山城屋の養子となり、高橋四郎兵衛を襲名。茂吉は若い時から帰郷や旅の折々にこの宿を訪れたといわれる。
住所/上山市湯町1-20
問い合わせ/023-672-0885(葉山舘)

81山城屋02.jpg82山城屋03.jpg85山城屋07.jpg

■抹茶庵(まっちゃあん) 
 
創業40年。細打ちの手打ち二八そばの店。期間限定の冷やしラーメン(5〜9月中旬)や山形郷土料理の〈だし〉を使った、だしそば(6〜8月)、その他、みそ、しょうゆ、塩味のラーメンや丼ものなど、メニューも充実。
住所/山形県上山市河崎2丁目4-12
TEL/:023-672-0399
営業時間/11:00〜19:00
定休日/不定休
駐車場/有り

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posted by kaminoyamaaruku at 13:18 | 日記 | 更新情報をチェックする
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